Chronicles
07. 白霧湿原の花

痛みは、邪魔者ではない。
サリアは診察台の横で、探索士の足首に巻いた布を外した。
布の下には、青く広がった打撲がある。熱は強くない。腫れは昨日より少し引いている。足首を支える腱のあたりに指を置くと、探索士は短く息を吸った。
「そこです」
「いつ痛む」
「立つ時と、階段を降りる時です。歩いているうちに、少し分からなくなります」
「分からなくなるのは、治ったのとは違う」
サリアは記録札に書いた。
右足首。外側打撲。熱、弱。腫れ、軽減。階段下降時痛みあり。歩行継続で感覚鈍る。
診療所の朝は、騒がしくない。
探索士協会や工房に比べれば、人の声も金属音も少ない。清潔な布が棚に畳まれ、水で冷やした手拭いが鉢に沈み、薬瓶は必要な分だけが作業台に並ぶ。壁には症状ごとの記録札が吊るされていた。薬の名より、いつ、誰が、どんな痛みを訴えたかが先に見える。
痛みは、身体からの報告だ。
うるさい報告もある。遅れて届く報告もある。持ち主が聞きたくない報告もある。だが、聞かずに消せば、次に届くのはもっと大きな損傷になる。
「今日は長く歩くな。痛みが薄れても、足首はまだ許可を出していない」
「明日の確認班に戻りたいんです」
「戻るために、今日は戻るな」
探索士は言い返しかけ、口を閉じた。
サリアは新しい布を巻き直し、冷やした手拭いを渡した。そこへ、診療所の戸が開いた。
ヴェリスが入ってきた。
その後ろに、ロウェンと、白霧湿原の確認班の探索士が二人。ロウェンは布で包まれた細長い標本箱を両手で持っている。もう一人の探索士は右手を胸の前に上げ、指先を触らないようにしていた。
サリアは立ち上がった。
「怪我か」
「しびれです」
ヴェリスが答える。
「白霧湿原外縁の確認中に、花を採集しました。採集した本人の指先に、熱感としびれが残っています。洗浄は済ませましたが、まだ抜けません」
サリアは探索士の手を見た。
指先がわずかに赤い。腫れは強くない。だが、本人は手を開いたまま固めている。痛みより、不確かな感覚を嫌がっている顔だった。
「素手で触ったか」
「一瞬だけです。茎を折る時に、手袋の隙間へ花液が」
「口や目には」
「触れていません」
「息苦しさは」
「ありません」
「しびれは、いつから同じ強さだ」
探索士は唇を結んだ。
「最初より弱いです。でも、まだ残っています。戻って報告すれば終わると思っていたので」
「終わっていない。座れ」
サリアはロウェンの持つ標本箱へ視線を移した。
「開けるな」
ロウェンの指が止まった。
「はい」
「そのまま作業台へ。箱ごと。誰も素手で触らない」
診療所の中にいた若い探索士が、興味を抑えきれない声で言った。
「しびれる花なら、痛み止めになるんじゃないですか」
足首を巻かれた探索士も顔を上げた。
「使えるなら、明日歩けますか」
サリアはすぐには答えなかった。
まず、しびれた指先を水で洗わせる。清潔な布で押さえ、赤みの範囲を記録する。時間を札に書き、再確認の時刻を決める。
それから、二人を見た。
「痛みを消すものは、使い方を間違えると怪我を隠す」
声を荒げる必要はなかった。
診療所では、強い言葉より、決まった手順の方が人を止める。
「足首の痛みを消して歩けば、折れていなくても悪化する。火傷の痛みを消して熱に触れ続ければ、皮膚は戻らない。毒で痛みが鈍るなら、まず考えるのは効き目ではない。どこに使ってはいけないかだ」
若い探索士は、少し背を丸めた。
「すみません」
「謝ることではない。期待は早い。手順は遅い。それだけだ」
ロウェンは標本箱を見下ろしていた。
その顔に、少しだけ戸惑いがある。持ち帰ったものが役に立つかもしれないという期待と、それを止められる重さの間で、視線が揺れていた。
サリアは標本箱を布で包み直し、研究院へ運ぶ準備をした。
ミアが呼ばれたのは、それから半刻ほど後だった。
研究院の隔離作業台は、普段の調合室より冷たい印象がある。木の机の上に、厚いガラス板が置かれ、その上には水差し、空の小瓶、布片、細い器具、記録紙が整えて並んでいた。窓の外には薄い雲がかかり、白霧湿原を思わせる淡い光が部屋へ入っている。
標本箱の中には、白い花が三本入っていた。
下向きに咲く花だ。花冠は小さな鈴に似ている。茎は細く、葉は長い。色は白だが、真白ではない。霧を吸った石のように、わずかに青みを含んでいる。
美しい。
そう思うこと自体は悪くない。
ただし、美しさは安全の証拠ではない。
ミアは手袋をはめ、花を見て小さく息を吐いた。
「白霧湿原らしい形ですね。花が下を向いているのは、霧の水滴をためすぎないためかもしれません」
「名前は」
「仮なら、白霧鈴花でどうでしょう。正式名にはまだしません」
サリアは記録紙に書いた。
白霧鈴花。仮名。白霧湿原外縁。下向き白花。接触後、指先しびれ。
二人は花を分けた。
花粉。
花液。
茎。
根。
ミアは植物の構造を見た。花粉のつき方、花液の色、茎を折った時の匂い。サリアは人の身体への反応を見た。採集者の赤み、しびれが出るまでの時間、水で洗った後の変化。
花液を小さなガラス皿へ落とす。
透明に近い。だが、布片の端へつけると、繊維がわずかに硬くなった。
「香りは弱いです」
ミアが言う。
「湿った石と、青い草。甘さはほとんどありません」
「強い香りがない毒ほど、扱いを誤る」
サリアは採集者の記録札を横に置いた。
指先熱感。しびれ継続。発赤、軽度。呼吸症状なし。目口接触なし。診療所で洗浄済み。
ミアは花粉を紙の上へ落とし、少し考えた。
「飲ませるものではありません」
「同意する」
「傷口にも使いたくありません。皮膚が開いている場所へ入れるには、刺激の形が分からなすぎます」
「それも禁止に入れる」
そこへ、ロウェンが水差しを持って入ってきた。
「追加の水です」
「机の端へ。花には近づけない」
「はい」
ロウェンは慎重に水差しを置き、ガラス容器越しに白い花を見た。
「きれいですね」
「きれいなものでも、触れるとしびれる」
サリアが言うと、ロウェンはうなずいた。
「記録が進めば、使えるようになるんでしょうか」
サリアは彼を見た。
「進むとは限らない」
ロウェンは言葉を失った。
「記録して、使わないと決めることもある。近づけないと決めることもある。持ち帰ったものが、誰かを止める札になることもある」
ロウェンは花から、採集者の記録札へ視線を移した。
「止めるための記録」
「そうだ」
サリアは花液を水で薄めた。
濃度の違う布片を三つ作り、それぞれに印をつける。
試す相手は、先ほど診療所にいた足首の打撲の探索士だった。
本人に説明する。
「これは治療ではない。試験だ。閉じた打撲部に、薄めた花液を含ませた布を短時間だけ当てる。痛みが変わるか、熱感が出るか、赤みが出るかを見る。嫌なら断っていい。途中でやめてもいい」
探索士は少し考え、うなずいた。
「やります」
「歩けるようにするためではない」
「分かっています」
「痛みが減っても、今日は歩くな」
「それも、分かっています」
分かっていると言う者ほど、もう一度言う必要がある。
サリアは水と清潔な布を用意し、砂時計を置いた。ミアは花液を含ませた布片を、器具で持ち上げる。
薄い方から。
足首の青い打撲の上へ、布片を当てる。
探索士は眉を寄せた。
「冷たいです」
「痛みは」
「まだあります」
「熱は」
「少し。布の下だけ」
サリアは布を外し、水で拭き取った。赤みは弱い。
次は、少し濃いもの。
当てる時間は短くする。
探索士は息を止めた。
「痛みが、少し遠いです」
「消えたか」
「いいえ。奥にあります。ただ、表面が鈍い」
「熱感は」
「あります」
サリアはすぐ布を外した。
水で拭く。赤みは強くない。だが、熱感は確かにある。
「もう少し試せば、歩けるかもしれません」
探索士が言った。
「試験終了」
サリアは砂時計を倒した。
「でも」
「痛みが遠くなったから終わる。歩けそうに感じたなら、なおさら終わる」
部屋が少し静かになった。
ロウェンは、探索士の足首と、布片と、サリアの筆を見比べていた。
記録は、前へ進むためだけのものだと思っていた。
けれど今、サリアの筆は、ここから先へ進むなと線を引いている。
それも、誰かを戻すための線だった。
「成功ではない」
サリアは記録した。
「失敗でもない」
まだ、名前のつかない反応だ。
「外用処置の候補。閉じた打撲部。短時間。薄める。使用後、水で拭き取る。熱感あり。痛み、表面で鈍る可能性。歩行許可とは無関係」
若い探索士が、部屋の端で小さく言った。
「使えるんですか」
「使えるかもしれない」
サリアは筆を止めずに答えた。
「それ以上は、まだ言わない」
ミアが布片を別の容器へ入れ、蓋をした。
「花液は、薬草棚には置かない方がいいですね」
「隔離標本棚へ」
「採集時は、花を下から支えないこと。花液が手袋の隙間へ落ちます」
「素手採集禁止。子どもは近づけない。目、口、傷口、体調不良者には使わない。長時間不可。内服不可」
ミアが植物側の注意を添えた。
「乾燥させた時の粉も注意です。花粉が舞うかもしれません。根は今回は触りません」
「次回採集条件に入れる」
使い方より先に、使わない条件が増えていく。
それでいい。
夕方、サリアは仮記録を書いた。
白霧鈴花。
白霧湿原外縁。下向き白花。花粉および花液に接触毒あり。素手採集禁止。外用処置候補。閉じた打撲部へ短時間のみ。内服不可。傷口不可。歩行許可とは無関係。要観察。
ミアはその横に、植物側の記録を添えた。
花冠、下向き。香り弱。湿った石と青い草。乾燥時の花粉飛散に注意。根と土壌の関係、未調査。
ヴェリスが告知札を受け取り、探索士協会の掲示板へ出すと言った。
「素手採集禁止は、太く書きます」
「太く」
サリアはうなずいた。
「痛み止め、とは書かないでくださいね」
ミアが付け加える。
「書きません。外用処置候補、要確認。あと、勝手に試すな、と」
「それは書いていい」
その場にいた数人が、少しだけ笑った。
夜になって、診療所は静かになった。
サリアは朝にしびれを訴えた採集者の指先をもう一度確認した。
赤みは引いている。しびれもほとんどない。熱感もない。水で洗った後に悪化しなかったことを記録する。
「もう触りません」
採集者が言った。
「触るな、ではない」
サリアは布を畳みながら答えた。
「次は、触る前に条件を整えろ。手袋、容器、布、記録係。採る理由と、採らない量」
「採らない量、ですか」
「全部持ち帰れば、湿原での姿が分からなくなる。少なすぎれば、調べられない。採る量も、採らない量も決める」
採集者はうなずいた。
診療所の灯りの下で、白霧鈴花の記録札はまだ新しい。
内服不可。
傷口不可。
歩行許可とは無関係。
要観察。
禁止事項ばかりの札は、遠回りに見えるかもしれない。
だが、サリアには違って見えた。
町が、危険の形をひとつ聞き取った証拠だった。
サリアは記録札の下に、小さな欄を残した。
次に誰かが白霧湿原から戻った時、そこへ書き足せるように。