Chronicles
08. アステリアの子どもたち

ニコの地図には、宝の印が三つあった。
一つ目は、中央広場の噴水の裏。
二つ目は、宿場街の古い井戸のそば。
三つ目は、探索士協会の門の向こう。そこだけは、赤い炭筆で大きく丸をつけてある。深界へ行く道が、きっとその先にあるからだ。
紙は古い包み紙を伸ばしたものだった。角は折れ、何度も畳んだ跡が白くなっている。道はまっすぐすぎるし、建物の大きさもでたらめだ。それでもニコにとっては、アステリアで一番大事な地図だった。
腰には木の短剣を差している。
刃は軽く、先は丸い。ユノに「食堂の椅子を斬るな」と言われたので、最近は抜く場所を選んでいる。
今日は、探索文化見学日だった。
アステリアの子どもたちが、探索士協会、研究院、工房、診療所、帰り火亭を順に見て回る日だ。ニコは前の日から眠れなかった。深界の怪物の牙が見られるかもしれない。大きな鉱石を持たせてもらえるかもしれない。探索士の本物の剣を、少しだけ触らせてもらえるかもしれない。
中央広場には、同じくらいの子どもたちが集まっていた。
小さな背嚢を背負った子。木の枝を杖にしている子。母親に髪を整えられて嫌そうな顔をしている子。みんな、いつもより少しだけ背筋を伸ばしている。
ニコの隣には、トマがいた。
トマは木の枝を杖にしている子だ。先に布を巻きつけ、杖というより槍のようにしている。本人は、それを探索槍と呼んでいた。
「ねえ、白霧湿原の花って見られるかな」
「触るとしびれるやつだろ」
「じゃあ、強い探索士はしびれないのかな」
トマが探索槍を肩に乗せた。
「強い人は、毒にも勝つんだよ」
ニコは木の短剣の柄を握った。
勝つ。
その言葉は、よく光る。
探索士は強い。深界へ行き、誰も見たことのないものを見つけて、町へ帰ってくる。掲示板に名前が出て、大人たちがうなずく。子どもたちはその背中を見る。
ニコも、いつかそうなるつもりだった。
「はい、集まってください」
探索士協会の前で、ヴェリスが手を叩いた。
受付服の胸元には、小さな見学日用の札がついている。いつもの明るい声だが、今日のヴェリスは少しだけ先生のようだった。
「走らないこと。勝手に触らないこと。質問は歓迎。ただし、危ないものは危ないと言われたらそこで止まること」
子どもたちがばらばらに返事をした。
「最初は掲示板です」
ニコは少し肩を落とした。
掲示板。
毎日見ている。探索士協会の壁にあり、紙と札と細い紐がたくさんついている場所だ。大人たちはよく立ち止まるが、ニコには字が多すぎる。強い探索士の道具を見る前に、なぜ掲示板なのか。
ヴェリスは、掲示板の前で子どもたちを止めた。
「ここには、帰ってきた人たちが町へ残したものがあります」
板には、いくつもの札が並んでいた。
白霧の谷道。仮線。単独進入不可。
灰香根。灰包み焼き。帰還後、重い食事を避けたい者へ。
白霧鈴花。素手採集禁止。外用処置候補。内服不可。
その隣に、小さな地図の写しがある。白霧湿原の外縁に、短い線が一本だけ引かれていた。
ニコは顔をしかめた。
「短い」
トマが笑った。
「それだけ?」
ヴェリスは怒らなかった。
「そう。それだけです」
「失敗だったの?」
「いいえ。戻れるところまで行って、戻ってきた線です」
ニコはもう一度、地図を見た。
短い線。
自分の地図なら、もっと先まで描く。山も谷も、秘密の印も、想像で描ける。紙の上では、どこへでも行ける。
だが、掲示板の線はそこで止まっていた。
「探索士が戻ってくるたびに、掲示板は少し増えます」
ヴェリスは言った。
「道が一本。注意が一つ。料理の仕方が一つ。触ってはいけないものの名前が一つ。それが増えて、次に行く人の助けになります」
助け。
ニコには、まだ少し地味に聞こえた。
研究院の記録室は、外の広場よりずっと静かだった。木の棚が高く並び、紙とインクの匂いがした。
オルドが、大きな図鑑を机へ広げた。
「これは、ルミナ小葉の頁です」
子どもたちは身を乗り出した。
ニコも、少し期待した。光る葉の絵が、頁いっぱいに描かれているかもしれない。深界の秘密が、全部そこに書かれているかもしれない。
だが、頁には白い場所が多かった。
押し葉の写し。葉脈の光についての短い記録。根元の土の湿り気。乾燥後の香り。
「まだ完成してないんですか」
ニコが言うと、オルドはうなずいた。
「そうです」
「じゃあ、どうして見せるんですか」
「完成していないからです」
ニコは意味が分からず、黙った。
オルドは頁の白い場所を指で示した。
「ここは、次に確かめる人のために空けてあります」
白いまま。
ニコは白霧の谷道の短い線を思い出した。
ミアが、小さな陶器の杯を持ってきた。中には淡い香りのする乾燥葉が入っている。
「これは大人用のお茶です。今日は香りだけ」
「飲めないの?」
「まだ身体が小さい人には出しません。今日は香りだけです」
子どもたちは順番に香りをかいだ。
ニコの番になると、森の湿った土と、少し甘い草の匂いがした。強い匂いではない。けれど、鼻の奥に残る。
「すごい魔法の葉じゃないんだ」
「すごいかどうかは、派手さだけでは決まりません」
ミアは静かに言った。
工房では、ニコの期待が少し戻った。
火。金床。吊るされた道具。革手袋。金属の匂い。
ここなら、強いものが見られるはずだ。
グレンは作業台に、二つの爪を置いた。
一つは古く、先が曲がっている。もう一つは新しく、背の部分に青白い細い筋が見えた。
「エラル鋼片を使ったロープランチャーの試作爪だ」
子どもたちが一斉に近づいた。
「触っていい?」
「だめだ」
グレンの声は短かった。
ニコは口を尖らせた。
「見るだけ?」
「見るだけで分かることがある」
グレンは古い爪を持ち上げた。
「こっちは滑っている。先を尖らせればいいわけじゃない。硬ければいいわけでもない」
「新しい方は強いんですか」
「まだ試験中だ」
「強いって書けばいいのに」
グレンはニコを見た。
「強いと書いたら、誰かが信じる。信じたやつが落ちたら、書いた者の責任だ」
ニコは何も言えなかった。
試験中。
その札は、格好よくない。
けれど、グレンはその札を、光る金属より大事そうに爪の横へ置いた。
診療所では、サリアが白い札を一枚ずつ机に並べた。
白霧鈴花。
素手採集禁止。
内服不可。
傷口不可。
長時間不可。
「不可ばっかり」
トマが小さく言った。
サリアはうなずいた。
「不可ばかりです」
「花なのに?」
「花でも、触るとしびれます」
「強ければ大丈夫?」
「知らずに触らないことも、探索の一部です」
ニコは木の短剣に触れた。
強ければ大丈夫。
そう思う方が簡単だった。
でも、サリアの声は、そうではないと言っていた。危ないものを危ないと読むこと。触らないと決めること。戻ってきた人の指先のしびれを、次の誰かのために札にすること。
それは、剣で何かに勝つのとは違う。
けれど、弱いことでもない気がした。
帰り火亭では、ユノが木椀を並べていた。
子どもたちは少し元気を取り戻した。見学で歩き回ったせいで、腹が鳴る者もいる。
「探索士って、戻ったら肉を山ほど食べるんだと思ってた」
ニコが言うと、ユノは笑った。
「食べる人もいるよ。でも、本当に疲れて帰ってきた人には、まず座る場所と、熱すぎない汁だね」
机には、灰香根の料理札が置かれていた。
灰包み焼き。帰還後、重い食事を避けたい者へ。
ユノは小さな木椀をニコへ渡した。中身は見学用の薄い汁で、灰香根ではない。
「これも探索士の仕事?」
「これは帰ってきた後の仕事」
「食べるのが?」
「食べられるようにするのが」
ユノは、壁際に並んだ探索リュックを指した。
「戻ってきた人が、話せるようにする。眠れるようにする。町はそこまで含めて、帰ってきた人を受け取るんだよ」
ニコは木椀を両手で持った。
温かい。
強い道具でも、毒の花でも、短い地図でもない。ただの椀だ。けれど、持っていると、少し息が落ち着く。
見学の最後に、子どもたちは探索士協会の前へ戻った。
ロウェンが待っていた。
ニコは、ロウェンを知っている。ルミナ小葉を見つけた見習い探索士だ。掲示板の前で何度か見かけたことがある。英雄のように大きくはない。鎧も派手ではない。話す時も、声はあまり大きくない。
それでも、大人たちはロウェンの記録を大事にしている。
ロウェンは、子どもたちの前で少しだけ緊張した顔をした。
「僕は、初めてルミナの森へ行った時、大きな成果は持って帰れませんでした」
ニコは地図を握った。
「光る葉は見つけました。でも、全部は採らなかった。もっと奥にも行けそうでした。でも、暗くなり始めていたので戻りました。その時は、足りないと思っていました」
ロウェンは研究院の方を見た。
「でも、戻ったから、ノートを渡せました。そこから図鑑の頁ができて、お茶も試せました」
それから、掲示板を見た。
「戻らないと、町に残せないんだと思います」
子どもたちは黙っていた。
ニコも黙っていた。
深界で何かを見つける。
それだけが探索士の仕事だと思っていた。
けれど、今日見たものは、戻ってきた後のものばかりだった。白い頁。試験中の札。触るなと書かれた注意。薄い汁。短い地図。
どれも、ニコが想像していた宝とは違う。
それでも、大人たちはそれを大事にしていた。
見学が終わると、子どもたちは広場の端で探索士ごっこを始めた。
トマが探索槍を振り上げる。
「白霧湿原だ。しびれる花を取ってこい。強い探索士なら平気だ」
別の子が、白い小石を花の代わりに置いた。
ニコは木の短剣に手をかけた。
いつもなら、ここで走る。誰より早く石を拾い、宝の印のところへ持って帰る。そうすれば勝ちだ。
でも、ニコは走らなかった。
「待って」
トマが振り向いた。
「何」
「素手でさわらない」
「石だよ」
「白霧鈴花のつもりなんでしょ」
トマは少しむっとした。
「ごっこだよ」
「ごっこでも、触らないことにしよう」
ニコは自分の背嚢から古い布を出した。地図を包んでいた布だ。それを小石の上にかぶせる。
「採るんじゃなくて、印をつける。ここにあるって、戻って言う」
「それじゃ勝てない」
「戻ったら勝ち」
口にしてから、ニコは少し驚いた。
その言い方は、朝の自分ならしなかった。
トマはしばらくニコを見て、それから探索槍の先を地面につけた。
「じゃあ、帰る場所も決める」
ニコはうなずいた。
自分の手作り地図を広げる。
これまで、地図の真ん中には宝の印を描いていた。赤い丸。大きな星。秘密の場所。そこへたどり着けば、勝ちだった。
でも今日は、炭筆の先がそこで止まった。
ニコは、まず中央広場を描いた。
探索士協会。
帰り火亭。
研究院。
工房。
診療所。
それから、広場のところに小さな丸をつけた。
「何それ」
トマがのぞき込む。
「宝?」
「違う」
「じゃあ、何」
ニコは少し考えた。
「帰る場所」
トマは首をかしげた。
「地図って、宝を描くんじゃないの」
「帰る場所も描く」
ニコはそう言い、木の短剣を腰から外して背嚢にしまった。代わりに、地図を折らないように両手で持った。
夕方、見学日の札が外されるころ、ニコはもう一度掲示板の前に立った。
白霧鈴花の注意札を読む。
難しい字がある。
内服不可。
要観察。
難しい字は残った。それでも、声に出すと、ただの字ではなくなる気がした。
掲示板の札は、夕方の光を受けて少し赤く見えた。
白霧の谷道の短い線。
灰香根の料理札。
ルミナ小葉の写し。
白霧鈴花の注意。
どれも、誰かが帰ってきたからここにある。
ヴェリスが、掲示板の端で見学日用の札を外していた。
「次は、帰還祭で見られます」
「何を?」
「今日見たものが、町の中でどう残るかです」
ニコには、まだ意味が全部は分からなかった。
けれど、帰還祭という言葉を聞くと、自分の地図の `帰る場所` の印が少し濃くなった気がした。
ニコは地図を胸に抱えた。
探索士になりたい気持ちは、朝より小さくなっていなかった。
ただ、少し重くなった。
そして、その重さは嫌ではなかった。