世界を知ることは、世界を守ること。

Chronicles

10. 世界樹の根の下で

帰還祭の翌朝、中央広場には、まだ少しだけ夜の匂いが残っていた。

屋台の柱を抜いた跡。石畳に落ちた灰。ランタンの油が染みた布。広場の端には、片付けきれなかった木箱が重ねられている。

灯り棚は、まだあった。

高い段の灯りはいくつか消されていたが、低い段の灯りは残っている。朝の光の中では、火は昨夜より小さく見えた。それでも、消えてはいなかった。

ロウェンは深界の門へ向かう途中で、足を止めた。

昨日、ニコが地図に灯りを描き足していた。宝の印より小さく、それでも何度も炭筆でなぞった印。帰還祭が終わっても、帰る場所は終わらない、と言っていた。

戻ることは、自分だけの判断ではない。

誰かが、戻る場所を残している。

「ロウェンさん」

声がして振り向くと、ニコが広場の端に立っていた。まだ眠そうな顔をしている。だが、手には地図を持っていた。

「今日、奥へ行くんですか」

「確認調査です。ルミナの森の奥へ」

ロウェンが答えると、ニコは地図を開いた。

中央広場の印。

帰る場所の印。

その横に、小さな灯り。

子どもの地図だから、道は曲がりすぎているし、建物の位置も正確ではない。けれど、その印だけは濃く、迷わず描かれていた。

「帰ってきたら、また掲示板に何か増えますか」

ロウェンは少し考えた。

「増えるかもしれない。増えないかもしれない。でも、戻ったら、見たことは伝えます」

ニコはうなずいた。

「じゃあ、帰ってきてください」

それは、見送りの言葉だった。

ロウェンは深くうなずき、探索士協会へ向かった。

協会の準備室には、すでに同行者が二人いた。正規探索士のマルクと、測量担当のイリナ。どちらもロウェンより経験がある。今回の調査でロウェンは中心ではない。植物と土壌の観察補助。それが役割だった。

ヴェリスが出発記録に印を押す。

「ルミナの森奥部、根系異常の確認。帰還予定は夕鐘前。採集は低影響範囲。根系本体への接触禁止」

「確認します」

ロウェンは、自分からミアの採集制限メモを読み上げた。

「根を傷つけない。土壌は少量。落下片優先。未知植物は素手で触れない。根系本体の切削、剥離、削り取りは禁止」

読み終えてから、ロウェンは採集袋の奥に入れていた小刀を取り出した。

刃を布で包み、袋の外側ではなく、奥の固定具へ留め直す。

マルクが片眉を上げた。

「使わないつもりか」

「必要なら使います。でも、最初に手が伸びる場所には置きません」

ヴェリスは何も言わず、記録に小さく印を足した。

机の上には、出発前の道具が並べられていた。

セイルが引いた経路確認用の仮地図。グレンの補強済みロープランチャー爪。ユノの携行食。サリアの注意札。ミアの採集制限メモ。オルドの記録札。

記録札の下半分は、まだ白かった。

マルクがそれらを見て、短く笑った。

「町ごと、少しずつ同行しているみたいだな」

ロウェンは、まったく同じことを考えていた。

深界の門をくぐると、ルミナの森は朝の湿り気をまとっていた。

第1話の初探索で入った時と、森の色は大きく変わっていない。葉裏に光が溜まり、根の隙間で小さな虫が動き、湿った土が靴底へ柔らかく沈む。

だが、見え方は変わっていた。

ロウェンは、光だけを追わない。

土を見る。水音を見る。同行者の足音を見る。戻る時に目印になる根の曲がり方、苔の色、風の向き、低い草の倒れ方を見る。

かつては、森のすべてが自分より大きく、どこから書けばいいか分からなかった。今も森は大きい。だが、全部を一度につかもうとは思わなくなった。

書けるところから書く。

手が届かないところには、まだ手を伸ばさない。

ルミナ小葉の群生地を通り過ぎる時、ロウェンは立ち止まった。

葉はまだ淡く光っている。根元の土は湿り、透明な小さな虫が苔の間を出入りしていた。

マルクが振り返る。

「採るか」

「今日は採りません」

ロウェンは答えた。

「前の記録と変化があるかだけ見ます」

ノートに短く書く。

ルミナ小葉群生地。光量、前回記録より大差なし。虫の出入りあり。土壌湿り、維持。

そこから先は、森の音が少し低くなった。

水音が近い。だが、川が見えるわけではない。地面の下を、広い水がゆっくり動いているような音だった。根は太くなり、木々の間隔が広がる。光は葉から落ちるのではなく、根の割れ目からにじむようになった。

イリナが測量紐を張った。

「ここから傾斜。足元が沈む」

マルクがロープランチャーを構え、前方の岩根へ爪を打ち込んだ。

鈍い音。

爪は深く入りすぎず、浅すぎず、岩根の表面で止まった。ロープに体重をかけると、爪がわずかにしなり、戻る。

グレンの試験中札が、ロウェンの頭をよぎった。

試験中でも、道具は命を預かる。

三人は、ゆっくり下った。

森の奥で、地面が開けた。

そこは洞窟ではなかった。

空の見えない広間、と言う方が近い。

天井のように見えるものは、岩ではなく根だった。太い根が何層にも重なり、梁のように横切り、柱のように垂れ、地面へ潜っている。一本の樹から伸びているのか、森全体の根が絡み合っているのか、見ただけでは分からない。

根の内側には、淡い光が流れていた。

水の流れに似ている。だが、液体ではない。光がゆっくり根の筋に沿って移り、ところどころで弱く瞬く。足元の湿った土には、微細な発光胞子が散り、ロウェンたちの動きに合わせてかすかに舞った。

ランタンの光が、弱くなった。

消えたのではない。根の光の方へ吸われるように、輪郭を失っていく。

誰もすぐには話さなかった。

地下水の低い音だけが響く。

イリナが、息を殺すように言った。

「世界樹の根みたい」

その言葉は、広間の中で小さく残った。

ロウェンはノートを開いた。

正式名ではない。

仮称。巨大根系。

通称案、世界樹の根。

ルミナの森奥部。地面沈降の先。巨大根系。複数層。根内部に淡光。地下水音。発光胞子。全体規模不明。

書きながら、手が少し震えた。

恐怖ではない。

大きすぎるものの前に立つと、人は自分の手の小ささを知る。その小ささが、指に出ていた。

マルクが根の近くへ進んだ。

「小片を取れれば、研究院が喜ぶな」

彼は本気で言ったのではないかもしれない。だが、言葉は広間の空気に落ちた。

ロウェンも、一瞬そう思った。

根の一部を持ち帰れば、大発見になる。

オルドは図鑑の頁を開くだろう。ミアやサリアは性質を確かめ、グレンは素材としての癖を見るかもしれない。ニコにも見せられる。帰還祭の高い段に置かれるような成果になるかもしれない。

町の役に立つ。

そう思えるぶん、手は伸びやすかった。

その想像は、まぶしかった。

まぶしいぶん、少し怖かった。

ロウェンは腰の袋に手を伸ばしかけた。

小刀は、すぐ取れる場所にはなかった。

出発前に、自分で奥へ留め直したからだ。

指先が、布に包まれた刃ではなく、採集制限メモの角に触れた。

根を傷つけない。

土壌は少量。

落下片優先。

ロウェンは息を吐いた。

足元の土が湿っている。根の表面には、小さな胞子がついている。その胞子の周りを、見たことのない細い虫が歩いている。虫は根を食べているのではない。根の表面に浮いた水滴のような光を、触角で確かめているように見えた。

第1話の倒木陰。

根元の湿った土。

小さな虫。

採らなかった根。

「切れば、分かるとは限りません」

マルクが振り返る。

ロウェンは続けた。

「落ちているものがあります。樹皮片。土壌も少量なら取れます。根そのものは、今日は触らない方がいいと思います」

イリナが足元を照らした。

薄い樹皮片が、湿った土の上に落ちていた。手のひらより小さい。根から剥がれたものか、別の植物のものかは、この場では決められない。

マルクはしばらく根を見ていた。

「採れば、手柄になるぞ」

「はい」

ロウェンは認めた。

「でも、持ち帰ったあとで何を壊したか確かめられないなら、それは記録ではありません」

自分の声は落ち着いていた。

けれど胸の奥は、まだ揺れていた。

欲しかった。

持ち帰りたかった。

町に見せたかった。

その気持ちが消えたわけではない。消えないまま、手を止めている。

だからこれは、我慢ではなく判断なのだと、ロウェンは思った。

マルクは短く笑った。

「見習いの言い方じゃなくなったな」

「まだ、見えていないことばかりです」

「だからだ」

マルクはナイフを戻した。

採集は、落下片だけにした。

イリナが位置を測る。ロウェンが土壌を小瓶へ入れる。湿度を記録し、地下水音の方向を書き、根の光の強弱を時間とともに記録する。

何度か、奥の空洞から風が来た。

根のさらに下へ続く空間があるのだろう。淡い光が、奥でゆっくり揺れている。進めそうだった。測量紐はまだ残っている。ランタンも消えていない。

それでも、ロウェンは地図を見た。

現在時刻。

帰路の傾斜。

足元の湿り。

ロープ残量。

同行者の呼吸。

帰還祭の灯り。

「戻りませんか」

言ってから、胸が重くなった。

第1話と同じ重さだ。

だが、あの時とは違う。

怖くなったから戻るのではないか、成果が少ない言い訳ではないかと、自分を責める声は小さかった。

今は、持ち帰らなかったものの大きさを知っている。

その大きさを、町へそのまま返すために戻る。

マルクは奥の光を見た。

「進めるぞ」

「はい」

「でも、戻れるうちに戻るべきだな」

イリナが測量紐を巻き始めた。

三人は、根の広間に背を向けた。

振り返りたい衝動はあった。もう一度、見たい。もう少しだけ、奥を確かめたい。だが、ロウェンはその衝動をノートの端に押しとどめた。

次に戻ってくるための、未記入の地点だった。

ルミナの森を戻るころ、光は夕方へ傾いていた。

行きに見た小葉の群生地を通り、倒木の陰を抜け、深界の門へ向かう。土の湿りは朝より強く、苔の色は少し沈んでいる。ロウェンはそれを見て、歩調を少し早めた。

深界の門を抜けた時、アステリアには灯りがつき始めていた。

帰還祭は終わっている。

だが、中央広場の灯り棚には、まだいくつかの灯りが残っていた。

ニコがその近くにいた。

ロウェンを見ると、駆け寄ってくる。

「帰ってきた」

「はい」

「何か見つけましたか」

ロウェンは背負い袋を軽く持ち上げた。

「大きなものは持ってきていません」

ニコは少しだけ目を丸くした。

「でも、見たんですか」

「見ました」

「じゃあ、掲示板に増えますね」

ロウェンは笑った。

「まだ書ききれないところが、増えると思います」

研究院の記録室には、夜の灯りが入っていた。

オルドは、ロウェンの調査ノートを受け取った。ライラも同席している。

机に置かれたものは少ない。

薄い樹皮片。

湿った土壌。

位置記録。

光の変化。

地下水音の方向。

そして、切り取らなかった根の記録。

オルドは頁を開いた。

見出しを書く。

巨大根系。

その横に、小さく `通称案: 世界樹の根` と添えた。

ライラは頁を見て、しばらく黙っていた。

「正式名にはしません」

ロウェンが言うより先に、ライラが言った。

「性質も、用途も、規模も、まだ決められません。研究は始めます。ただし、根系本体への採集は禁止。周辺観察からです」

オルドは頁の下半分を空けたまま、線を引かなかった。

「書かないんですか」

ニコなら、そう聞くかもしれない。

ロウェンは、そんなことを思った。

だが今は、その白さが必要だと分かる。

巨大根系そのものは、持ち帰っていない。

だが、持ち帰らなかった大きさも、記録の一部だった。

夜、ロウェンは中央広場へ出た。

灯り棚の低い段には、まだ火が残っている。高い段にも、いくつかの小さな灯りが揺れていた。

ニコが隣に立った。

「世界樹って、本当にあるんですか」

「まだ、確かめきれていません」

「分からないんですか」

「はい。今は、そう呼びたくなるものを見ただけです」

ニコは少し考え、自分の地図を開いた。

帰る場所の印。

灯りの印。

その外側に、まだ何も描かれていない場所がある。

「ここ、空いてます」

「そこへ、すぐ描かなくてもいいと思います」

ロウェンは言った。

「まだ描かない場所があってもいいと思います」

ニコは地図を見下ろし、うなずいた。

「じゃあ、帰ってきたら描きます」

「はい」

ロウェンは灯り棚を見た。

深界には、まだ描けない場所がある。

森の奥に、巨大な根がある。

それでも、門のこちらには町がある。

記録する人がいる。

道具を直す人がいる。

食事を作る人がいる。

痛みを見る人がいる。

地図を引く人がいる。

灯りを消さずに待つ人がいる。

だから、進める。

そして、戻れる。

ロウェンは調査ノートを胸に抱えた。

今日、持ち帰らなかったものの大きさを思う。

その大きさは、袋には入らなかった。

灯りが小さく揺れた。

ロウェンは、地図の外側へ線を引かなかった。