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Chronicles

09. 帰還祭

ニコは、地図を胸に入れて家を出た。

紙は何度も開いたせいで、角が少し丸くなっている。前に描いた宝の印はまだ残っていた。その横に、前より濃い丸がある。

中央広場。

探索士協会。

帰り火亭。

研究院。

工房。

診療所。

それらを結ぶ線の真ん中に、ニコは `帰る場所` の印を描いていた。宝の印より小さい。けれど、消えないように何度もなぞった印だ。

今日は帰還祭だった。

見学日の終わりに、ヴェリスが言っていた。

「今度の帰還祭で、今日見たものの続きを見られます」

その時、ニコは祭りと聞いて、屋台と灯りと焼きパンを思い浮かべた。探索士が褒められる日だとも思った。強い人たちが広場に立って、大人たちが拍手する日。

けれど胸の中の地図に `帰る場所` の印を描いてから、その考えは少しだけ変わっていた。

褒められる日ではなく、迎える日なのかもしれない。

まだ、はっきりとは言えない。

中央広場は、日が落ちる前からにぎやかだった。

石畳の上を子どもたちが走り、屋台の布屋根が風に鳴った。焼きパンの匂い、薄い汁の湯気、火を起こす煙、蜜を塗った木の実の甘い匂いが混ざっている。誰かが笑い、誰かが名前を呼び、荷車の車輪が石に当たって小さく跳ねた。

ユノの屋台には、もう列ができていた。

「子どもはこっち。灰香根の皿は大人に聞いてからだよ」

ユノは鍋の蓋を開け、湯気を逃がしながら言った。子ども用の椀には、軽い汁と小さな焼きパン。大人用の端の皿には、灰香根の灰包み焼きが少しだけ置かれている。札には `帰還後用。食べすぎ注意` と書かれていた。

工房の台には、エラル鋼片を使った試作爪が置かれている。

隣には、いつもの `試験中` の札。

若い探索士が「祭りの日くらい外せばいいのに」と言って、隣の職人に肘で止められていた。グレンは腕を組んだまま、その札を外さない。

研究院の机には、ルミナ小葉の図鑑頁の写しと香り袋が並んでいた。ミアの字で、`休息用。効能保留` とある。

診療所の小さな板には、白霧鈴花の注意札。

`素手でさわらない`

`しびれが出たら洗って報告`

大きな字で書かれている。ニコはその前で足を止めた。

もう知っている。

きれいなものでも、触っていいとは限らない。

そう思えたことが、少しだけ誇らしかった。

広場の端では、オルドが厚い帳面を開いていた。表紙には、帰還祭記録と小さく書かれている。風で頁がめくれないよう、四隅には滑らかな石が置かれていた。

「ここにも、名前を書くんですか」

ニコがのぞき込むと、オルドはインク瓶の位置を直した。

「ええ。今日、戻ったことを町へ返した人の名を書きます」

「楽しかったことじゃなくて?」

「楽しかったことも町の記憶です。けれど、この帳面では、戻ったことを残します」

頁には細い行が並んでいた。名前を書くための行。まだ空いている行。空き欄は寂しくも見えるし、待っているようにも見えた。

前の見学日で一緒だった子どもたちが、ニコを見つけて走ってきた。

「ニコ、灯り棚見た?」

「まだ」

「名前がついてる。高いところと、低いところがある」

その声は、屋台を見つけた時より少し小さかった。

ニコは探索士協会の前へ向かった。

掲示板の横に、段のついた木の棚が置かれている。そこに、小さなランタンがいくつも並んでいた。ひとつひとつに薄い木札が結ばれ、名前が書かれている。

高い段のランタン。

低い段の明かり。

まだ火を入れられていない小さな器。

広場はにぎやかなのに、低い段の前だけ音が少し遠かった。屋台の呼び声も、鍋の蓋が鳴る音も、薄い布を一枚通したように聞こえる。

ヴェリスが名簿を抱えて立っていた。今日は受付服ではなく、祭り用の薄い肩掛けをしている。それでも、手元の紙を押さえる指はいつもの受付の人と同じだった。間違えないように、なくさないように、少し強く紙を押さえている。

「あれは?」

ニコが低い段を指さした。

「まだ戻っていない人の明かりです」

「戻ってないなら、どうして火をつけるの?」

「戻っていないから、消さないんです」

ヴェリスはそう答え、傾いた木札を直した。

木札の端は、何度も触られたように少し丸くなっていた。

「帰ってくる場所があると、町が忘れないためです」

ニコは自分の胸元を押さえた。地図の紙が服の内側で小さく鳴る。

日が落ち始めると、広場の音が変わった。

屋台の声は残っている。子どもたちの笑い声も、鍋の蓋の音もある。焼きパンの匂いが人の流れに混じって、探索士協会の前まで届いていた。

それでも、人々が棚の前へ集まり始めると、声は自然に低くなった。祭りは続いている。けれど、その中心だけが、少し息をひそめていた。

ヴェリスが名簿を開いた。

横にはオルドがいて、帰還祭用の記録頁を用意している。ロウェンは少し後ろに立っていた。背筋を伸ばしているが、肩に力が入っている。グレンは腕を組み、ユノは屋台の火を少し弱め、ミアとサリアは人の流れの端に立った。

「今年三度目の帰還祭を始めます」

ヴェリスの声が広場に通った。

「深界から戻り、記録を町へ返した人たちの名を読みます」

最初に読まれたのは、鉱脈域から戻った探索士の名だった。

拍手が起きる。

ランタンが一つ、高い段へ移される。

次は、白霧湿原外縁の確認班。

また拍手。

火が移される。

次は、ルミナの森の観察記録を提出した見習い探索士。

大きな発見とは言われなかった。

小さな報告とも言われなかった。

ただ、名前が読まれた。

同じように拍手が起きた。

ニコは顔を上げた。

拍手の大きさが、ほとんど変わらない。

鉱石を持ち帰った人にも、危険な花を採らずに報告した人にも、地図に短い線だけを足した人にも、戻って記録を渡した人にも、広場は同じように手を叩く。

「ロウェン」

ヴェリスが名前を読んだ。

ロウェンは一瞬だけ息を止めたように見えた。広場から、穏やかな拍手が起こる。大きな歓声ではない。けれど、あたたかい。

ランタンが一つ、高い段へ移された。

ロウェンはその灯りを見て、少し照れたように目を伏せた。

ニコは近づいた。

「今の、うれしい?」

ロウェンは少し考えた。

「うれしいです。でも、自分だけの明かりではない気がします」

「どうして?」

「僕が持ち帰った葉は、オルドさんが記録して、ミアさんが茶にして、ユノさんの店で話になって、今日ここに置かれています。この火は、僕の成果を見せるためだけじゃなくて、次に行く人へ渡すためにあるんだと思います」

ニコは高い段のランタンを見た。

炎は小さい。揺れる。けれど、消えていない。

名簿の読み上げは続いた。

セイルの名が出ると、掲示板の上で白霧の谷道の仮線が風に揺れた。誰かが「あの線は短いが助かる」と言った。グレンの工房で修理を受けた探索士の名が出ると、グレンは何も言わずにうなずいた。白霧鈴花を持ち帰った確認班の名が読まれると、サリアは棚の火より先に、その人の指先を見るような目をした。

ユノの名も読まれた。

探索士ではない。

深界へ入ったわけでもない。

それでも、帰還後の食事札を整え、夜番に使える料理を町へ渡した者として、名簿にあった。

ユノは屋台の向こうで手を拭きながら、少し眉を上げた。

「私はいいよ」

そう言いかけたように見えたが、ヴェリスはそのまま読んだ。

拍手が起きる。

ユノは困ったように笑い、鍋の蓋を少しずらした。

グレンの名が読まれた時も、ミアの名が読まれた時も、サリアの名が読まれた時も、広場は同じように手を叩いた。探索士だけではない。戻ってきたものを町で受け取った人たちも、帰還祭の中にいた。

ニコはそこで、少し分かった。

帰る場所は、建物だけではない。

待つ人、記録する人、直す人、食べさせる人、止める人。そういう人たちがいるから、場所になる。

名簿の頁が一枚進んだ時、遠くで子どもの笑い声が上がり、すぐに誰かが「こぼすよ」と注意した。

その声が広場の端へ流れていく途中で、ヴェリスの指が止まった。

ほんの短い間だった。

広場の誰も気づかなかったかもしれない。けれどニコは見た。ヴェリスが低い段の明かりを一度だけ見て、それから名簿へ視線を戻したのを。

その名前は読まれなかった。

まだ、読む場所ではないのだと、ニコは思った。

読み上げが終わると、屋台の声が少しずつ戻ってきた。止まっていた荷車が動き、鍋の湯気がまた人の肩越しに白く上がった。

屋台の声は戻った。子どもが走り、焼きパンの籠が空になり、鍋の蓋が何度も鳴った。

その明るさの中で、明かり棚の低い段だけは静かだった。

ニコは低い段の明かりの前に戻った。

そこに、年配の女性が一人立っていた。木札の紐を直している。泣いてはいない。だが、指先はとても丁寧だった。

ニコは少し離れて立った。

言葉がすぐには出てこない。

言わない方がいい気もした。

ヴェリスが横へ来た。名簿を閉じたあとも、まだ腕から離していない。

「その灯りは、まだ低い段にあります」

ニコは小さくうなずいた。

「戻ってないから」

「はい」

「戻らなかったら、消すんですか」

ヴェリスはすぐには答えなかった。

小さな火が揺れた。

「町が待つことをやめる時まで、消しません」

「待つことをやめる時って、いつ?」

「簡単には決めません」

ヴェリスはそう言って、低い段の木札をもう一度直した。

「だから、名簿は急いで閉じないんです」

ニコは低い段の明かりを見た。

屋台の方から、ユノの声がした。さっきまで遠く聞こえていた声が、急に近く戻ってくる。

「冷めるよ。子どもは先に食べな」

ニコは棚から離れ、木椀を受け取った。薄い汁と焼きパン。いつも通りの味だ。けれど広場の明かりを見ながら食べると、少し違って感じた。

ミアの机には、ルミナ小葉の香り袋がある。

サリアの台には、白霧鈴花の短い注意札。

グレンの展示には、試験中の爪。

オルドの頁には、今日読まれた名前。

セイルの仮地図には、白霧の谷道が短い線のまま残されていた。祭りの日だからといって、長く描き足されてはいない。

ニコは焼きパンをかじりながら、その短い線と低い段の火を交互に見た。

夜が深くなると、屋台は少しずつ片付けを始めた。

子どもたちは眠そうになり、大人たちは肩掛けを直し、探索士たちは名簿の前で短く言葉を交わしている。

それでも、棚は片付けられなかった。

高い段も、低い段も、まだ小さく燃えている。

ニコは広場の端に座り、自分の地図を広げた。

中央広場。

探索士協会。

帰り火亭。

研究院。

工房。

診療所。

帰る場所の印。

その横に、ニコは小さな灯りを描いた。

宝の印より小さい。

けれど、炭筆で何度もなぞった。

広場の向こう、深界門の影が夜の中に立っている。

ニコは地図の灯りをもう一度なぞった。

帰還祭が終わっても、帰る場所は終わらない。